池垣 タダヒコ
Tadahiko Ikegaki

 私は銅が好きで銅版画をプロパーに版画制作をして来ました。エッチングなどの技法で銅の表面を酸で腐蝕して、凹凸をつけてレリーフ状に製版をします。銅版画の仕組みは版の凹凸にインクが詰められプレスされ紙に印刷されるのですが、その構造が物理的で図解のように見えて私にはわかりやすく、さまざまにアイデアが浮かび私なりの応用が可能でした。
 銅自体も不思議な金属です。青銅器の時代からの人類最古の金属ですが、よく何もなかった時代に野山で発見され、溶かして型枠に流し込んで成形できたものと感嘆します。私が使用する薄銅板は0.8mmで、ハサミでも容易に切れて金属なのに柔らかく、まるでドローイングで描いた線のように感じます。銅の表面は生ハムのようでどこかしっとりしていてデリケートに思われ、そのままにして置くとすぐに酸化し黒くなったり、緑青が吹き出たり、また白銅、赤銅、黒、など七変化します。版画も媒体として過去の記憶のメディアでしたが、銅の表面も記憶を残すためのメディアになると思います。表面は銅版画の直接技法のドライポイントのように傷が付き易く、その傷は記録されたデータと言えるでしょうか。また、表面に緑青のようなサビを生じさせて内部を守ることで長いあいだの保存を可能にすることでも生き物のような賢い金属だと思います。

 レリーフ状の世界にある奥行きや箱庭的世界観にも興味があります。360度周りから鑑賞できる立体ではなく、平面的で壁にくっ付いているレリーフの世界で、斜めからのぞき込めるような世界の面白さがあります。それは二次元のドローイングの世界と三次元の立体の世界を往来するような楽しさがあります。
 平面の世界は重力から解放され何処にでもイメージを置く事が出来て自由に紙の中の空間を飛び回ることができます。しかし、素材の持つ物質性が無くリアルな手応えがありません。制作過程においても立体の場合は素材の可塑性や造形性などが展開のヒントになることがありますが、ともかく紙の中の手応えがない机上の話になってしまいます。一方、立体は材料から、加工までコストがかかります。また体力と時間が必要となってきます。リアルの現実感が全員勢ぞろいで襲ってきます。何よりも新たな物体を出現させるといった神的で即物的な快感は立体が優っていると言えるでしょう。片方に行き詰まると隣の芝生が青く良く見えて、しんどくなってくると楽しそうな方に逃げて、うまく自分を騙しながら、今日も行ったり来たりするのでしょうか? そしてこの往還が左右の足で歩行するように制作が進むのである。聞いた話であるが、人は立っている時でもさえ左右に振り分けて体重を移動させているらしく、両方同時に均等に体重がかかると倒れてしまうらしい。つまり私も平面と立体をバランス良く作り分ける事が必要で、そうすれば倒れずにもうすこし先まで作り続けられるように思います。
2017 年4 月14日 池垣タダヒコ
(2017年個展ステートメントより抜粋)